女川町誌
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遙任国司は自分の代官として目代を国衙に派遣した。即ち目代は国守の代官として、在庁官人の上にあつて之を支配監督したのである。かかる目代を中心として構成された国衙は、遙任国司に対して留守所と呼ばれた。留守所に於ては目代の権力はもとより最も大きかつたが、目代は国守の交替に際してやはり代らなければならなかつた。然るに在庁官人はその権限こそ拡張する餘地はなかつたが、彼等は一般に地方土看の有力者であり、しかもその職が世襲されたのであるから、彼等は次第にその実力を蓄積し、遂に土豪化し武士化するに至つた。陸奥国が中央政府から最も遠隔であり、且つ土着勢力の最も強い所であつたから、ここに安倍氏・清原氏の如き反律令的勢力が最も成長したことは当然の事であつた。女川地方に安倍貞任に因む史蹟があり、阿部氏の姓の多いことは注目すべき事実である。東北地方の開拓が進展するに及び、戸口の増加・郡郷の増置は目ざましいものがあつた。平安中期源順(九一一―九八三)の著書『和名類聚抄』によると、当時陸奥国の郡郷は三十六郡百六十郷の多きに達し、数の上に於ては実に日本第一になつている。その中の十九郡八十一郷は本県地域内に属していた。特に陸奥国の政治・軍事・文化の中心たる宮城郡地方の郷村の発達は最も著しいものがあつた。牡鹿郡は遠島と呼ばれた半島部に属していたので、郷は僅かに賀美・碧河・余戸の三郷で、その地域は明かでないが、女川地方は半島部の牡鹿町と共に余戸郷に属していたように推測される。5土着勢力の豪族化その後律令的支配体制が頽廃し、新に擡頭して来たのは現地の土着勢力であつた。その代表的なものは古くよりこの地方に根拠をもつ俘因の有力者及びこの地に土着した国司や鎮府の子孫である。彼らは奈良時代開墾の奨励に乗じて没落した公民或は浮浪人を集めて盛んに土地を開墾し、自己の勢力を拡大しつつあつた。特に俘因長は政府の順撫104

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