女川町誌
163/1094

また陸奥国府(当時武隈)に陸奥守として天平十五年(七四三)に赴任し撫民拓殖に当られた百済王敬福が、陸奥国から産出した黄金を朝廷に献上した時、女川の御前浜に御所を造つたので、この浜を王前浜と称した。後世「王」の字を忌んで御前浜と改めたと伝えている。是等の史実の真偽は詳かでないが、かかる伝説を早くより生むに至つた女川地方の開拓は、当時既に相当の域に達していたものと推測されるのである。六、平安時代の女川1平安初期の蝦夷征伐奈良時代末期の陸奥国は、蝦夷の叛乱などがあり、重大な危機をはらんだまま次の平安時代に入つたのである。従つて平安初期の桓武帝の御代に於ける蝦夷征伐は、律令国家の頽勢を挽回せんとする一大事業で、実に国家の運命を賭して行われたものであつた。天皇の御決意にも非常なるものがあり、征夷の軍も空前の大規模なものであつた。先ず天王は征夷軍の賑わないのは将兵の素質の劣弱にありと断ぜられ、延暦二年(七八三)兵制の改革に着手された。即ち坂東八か国に勅して散位の子、郡司の子弟及び浮浪人にして軍役に堪え得るものを徴発し、国の大小に応じて各五百乃至一千人を選出し、武芸を習わしめ以て準備に数年を費されたのである。その間陸奥按察使・持節征東将軍・陸奥守等の交迭を試み、いよいよ延暦七年(七八八)三月、陸奥国に命じて兵糧三万五千余石を多賀城に運ばしめ、また東海・東山・北陸の国々に命じて糒二万三千石及び塩を運ばしめ、更に諸国弓馬に堪える者歩騎五万二千八百余人を徴発して、来年三月を限つて多賀城に会集を命じ、参議左大弁中衛中将紀古佐美を征東大将軍とし十二月節刀を賜わり、予定の如く諸国の軍兵が多賀城に会し、道を分つて賊地に進撃することになつた。然るに賊勢甚だ強く征夷の軍は三月末衣川に達しただけで、それ以後は容易に進むことが出来なかつた101

元のページ  ../index.html#163

このブックを見る