女川町誌
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仁徳帝の五十五年(三六七)には上毛野田道将軍が、東征に赴いて戦死した。その地は伊寺いずの水門みなと、即ち今の石巻地方であろうと見られている。さて大化前代の大和朝廷の勢力は、白河・菊多の両関を越えて東北地方に進展し、そこに多くの国造の設置を見るに至つたのである。大化以後律令制が施工されるに及び東北地方は陸奥国と称せられ、中央政府から派遣された国司によつて統括されることになつた。その北限は阿武隈川流域であつたようである。最初の陸奥国府の所在地については詳かでないが福島県安積郡大槻村の辺であろうとされ、ついで陸奥経営の北進と共に信夫郡宮代村に移され、更に和銅六年(七一三)に至り、名取郡が設置されてから阿武隈川口に近い武隈(今の岩沼)に移されたといわれている。東北地方が陸奥国となり、従来の国造領はそのまま新制の郡に編成され、国造は郡司に任命されたことは他の地方と同様である。しかし東北地方に於ける新政の実施は他の地方とは同日に論ずることは出来ない。当時の東北地方にはまだ朝廷の支配に服属しない所謂蝦夷が地方に蟠居し、また帰服した蝦夷も何時叛乱を起すか分らない有様で、対蝦夷の問題が常に基本的に重要であつたのである。従つて蝦夷順撫と拓殖事業とは東北地方に於ける新政の最も重大な仕事であつた。かかる特殊地域であつたので陸奥国司の任命は一段と重要視されたのである。2多賀城の建設多賀城の建設は神亀元年(七二四)であつた。この築城は陸奥経営史上、真に劃期的な意義を有つもので、九州の太宰府と共に古代に於ける国家の最も重要な対外軍事機関であつた。これより対夷政策はいよいよ強力におし進められ、奈良末期までには今の宮城県北部まで略々律令国家圏内に入ることになつた。多賀城の建設以来征夷拓殖事業はいよいよ進展し、天平年間には玉造・新田・牡鹿・色麻の四柵が置かれ、天平九97

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