女川町誌
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の脅威をさける護符の役目をもつていたことだろう。土偶は女のひとを表現したものが多く、特に乳房と腹部を誇張した例が多いのは、母系社会に特にみられる女神崇拝の象徴であつたか、生殖神や地母神的偶像として呪術的な意味をもつていたからかも知れない。尾田峰貝塚から裾巾二十余センチの土偶内山遺跡から肩巾三センチのものが発見されている。こうした土偶はつくられた時期や地域によつて形や文様がちがつている。貝塚は住居附近にきずかれるのがふつうであるが、墓地としてつかわれたこともあつたらしく、南境貝塚(稲井村)の例のように繩文時代人の人骨がしばしば埋葬されていた。一般に手足をまげて屈葬にしてあり、人骨の上に大小の石が積み重ねられたまま発見されている。おそらく死者の霊が復活するのをおそれる原始的な宗教信仰が生んだ埋葬法なのだろう。このように埋葬されたひとたちは、東北地方では特に現日本民族の祖型を示すともいわれているから、女川の繩文時代の遺跡や遺物は、われわれの遠い祖先の生活を物語る貴重な資料であるといわねばならない。繩文時代の服装はよく知られていないが、尾田峰貝塚などの土偶をみるとパンツのような着類を腰につけていたようである。簡単な上衣やケサ衣・貫頭衣などの原始服装もあつたかも知れない。鹿などの毛皮や網代に編んだ植物繊維がそのころ主な衣料であつたろう。85 土偶(左は内山遺跡出土、右は稲井村沼津出土)

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