女川町誌
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口をふさがれるようになつたのは、弥生式時代もすぎて歴史時代に入つてからのことであろう。女川湾もまた大石原浜長者ノ浜遺跡がつくられた奈良朝期には、現在とほとんどかわらない地形になつていたものと想像される。貝塚は万石浦と御前湾沿岸に分布していて、女川湾沿岸にはみあたらない。これは踏査が十分でないことにもよるが、女川湾はノコギリ歯のように海にせまる断崖が多くて、泥土質の干潟がめぐまれなかつたからでもあるだろうということは、万石浦や御前湾は貝類の繁殖にかなつた遠浅泥質の入江であつたことを物語るようである。女川の貝塚は、宮城学院女子大学加藤孝氏の「考古学上よりみた宮城県」では三陸海岸段丘貝塚群に比定されているが、それによるとほとんどの貝塚が海水産の貝殻で構成されている。貝層はあまり厚くなく、長い年代に連続して形成されたような大貝塚にとぼしい。しかしまた、四子館貝塚では繩文早期から晩期にわたる遺物が出ており、尾田峰貝塚が繩文後期・晩期の大貝塚であることが指摘されている。そのほか唐松山下貝塚は繩文晩期と奈良朝期、黒島貝塚が繩文晩期・弥生式時代・古墳時代の遺物を出土していて複雑な貝塚構成をあらわしているのである。女川には、貝塚のほかに遺物包含地・遺物散布地など二十か所の遺跡がある。遺物包含地とは、貝塚のような貝殻の堆積がなくて土の中に土器や石器が包含されている遺跡をいい、遺物散布地は地表に遺物の散布があつてまだ包含層がたしかめられない遺跡を名づけている。繩文前期の浦宿B、前期中期の小浦、中期の内山、繩文後期弥生式時代古墳時代奈良朝期にあたる田ノ畑、古墳時代奈良朝期の大石原などが女川の主な包含地である。それらの遺跡に共通なことは、出土する鳥獣骨や魚骨がきわめて僅かで、骨角製の用具などが一箇もでていないことである。これは骨や角が貝殻のカルシュウム分で保存されることがなく、酸性の土壌中ですぐ腐敗してしまつたからである。貝塚や包含地はひとびとの生活した跡であるから女川にも住居址などがあるわけだが、まだ住居址の調査は進んで81

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