女川町誌
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らして水産業がこの地の主なる生業であるが、後背に山地を控えているので林業もまた盛んである。特に何れの家々に於ても炭焼を行つているが、昔から餘り戸口が増加していない。しかし早くよりこの地に小学校の分校が置かれ、多年一学級編成のままで続けられて来たが、昭和三十一年度に至り、漸く二七名の児童が二学級に収容された。六、横浦小乗からの山道は高白浜を過ぎ、更に南方へ進み名不知峠の頂上辺より、対岸の塚浜や江島諸島が一望のもとに眺望される。ここから山道を南に下ると横浦の部落に至るのである。横浦は昔から全部落が漁家で、古くは大肝入であつた木村家の住居した所である。大肝入の始めは文政四年(一、八五七)の木村五郎右衛門氏で、明治時代に至るまで代々その子孫がこれを継承して来た。その家は現存し、女川村初代村長木村慶五郎氏を出し、また現女川郵便局長木村慶紀氏もその後裔である。横浦分校は明治六年に創設された当時の九十九小学区の独立の小学校であつた。昭和二十年四月一日五部浦国民学校として合併し、その後変遷を経て今日に至つている。五部浦とは横浦始め大石原浜・野々浜・飯子浜・塚浜の五つの浜浦を総称した地名である。高白浜住民の生業(昭和二七年度調)69

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