女川町誌
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ことである。十一月二十一日、午後二時三十分、女川町教育長の鍬入れ式の後、西の沢流の右岸にすぐ近く、南北三米東西十米の六区のトレンチを設定、表土の剝離を開始、三時には遺物の包含層を発見することができた。十一月二十二日、引き続き表土を剝離、混貝層の調査に当った。腐蝕土質の黒味を帯びた土層の中に少量の貝を包含するだけで、粘板岩質の破砕片が多く、竹べらも使い易い脆い層であった。この混貝層を二十糎程下げた所に比較的大きい十~二十糎位の石の破片を混入した層があり、この付近からは、骨鏃・骨銛・貝輪が多く出土していた。昼近くになって、土器片の出土量が多くなり、粗製深鉢の一括土器も取り上げられるようになった。しかし南北に僅かに傾斜するトレンチの中央から南は特に層序がはっきりせず剝離に苦労したが、それでも山寄りの北は、土器の貼りつく面で層序を抑えることができた。この層の主体土器は繩文式文化晩期大洞BC式であるが、トレンチ南大洞C式の混入も若干見られた。大体同じ深さの箇所で異なる土器型式の出土する疑問に苦しめられ乍ら第二日目は終った。十一月二十三日、前日の土器面を追ってトレンチを整理した。トレンチ中央部で約五十糎下の所に、平たく潰ぶされた粗製土器の一括が多く出土し、その面が略平らであった状況から、住居跡に突き当っていることが判り、全ての疑問は解決した。この床面を追って住居跡の範囲を追求したところ、午後になって赤暗灰色約五糎の灰層とトレンチ全面に広がる薄い粉炭混りの層が発見され、住居跡が確認された。これは大洞BCの時期に構築されたものであるが、この住居跡の床面がもう一段低められ、その箇所からトレンチの南壁付近には大洞Cを出土していることから、大洞BCの住居跡の営まれた後、更にこの遺跡の上に次期の大洞C時代人により住居跡を営まれたことが発掘の進む989

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