女川町誌
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追録一、浦宿尾田峰囲貝塚の調査女川町浦宿尾田峯囲貝塚調査概報(昭和三四、一一)一、調査研究史この貝塚は、既に石巻市の毛利惣七郎・遠藤源七両氏らによつて報告されている様に、通称浦宿貝塚と呼ばれ、付近の沼津貝塚と並んで有名な貝塚であった。尾田峰囲の名称は、最近女川町誌編纂による調査の際、地点の正確を期するために、女川町誌前遺跡の分布を調査された三宅玄雄氏により初めて呼称されたものである。昭和二十七年、三宅氏の調査によると、この貝塚は三陸海岸に位置する貝塚としては規模の大きい繩文式文化後期から晩期への貝塚だが、精巧で豊富な出土遺物を出土するので注目される様になり、学術研究が俟たれるのみとなつていた。丁度、東北大学教育学部歴史研究会では、かねてから、鳴瀬町宮戸貝塚・松島町西ヶ浜貝塚を中心として、松島湾内に於ける貝塚を主に陸前地方繩文式文化後期編年上の諸問題を研究して来ていたが、この研究完成のためにも尾田峰囲貝塚の調査が強く望まれていた。研究会が町誌編纂を機に町教育委員会の後援を得て学術調査を開始出来たことは真に幸いなことであった。その後、整理も着々と進められてはいるが、一々を検討する段階に迄到達していない。いずれ、別に報告書として刊行されると思うので、ここでは遺跡の紹介程度に止めて置きたい。987

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