女川町誌
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特段の協力相成様懇談の上帰庁致候に付及復命候也 昭和十九年七月三日 書記木村敬止塚浜鳥島間防波堤の調査資料たる年度(港)漁港(船舶)港勢概況調別紙の通り調製報告相成可然哉 六月二十二日午前十一時閖上漁港修築工事々務所より左記電話有之候に付供覧 記塚浜鳥島防波堤工事測量の為め県水産課佐藤技手一名閖上発午前十一時の予定に付左記用意せしめられ度し 尚四、五日滞在の見込に付可然御配意相成度し ㈠ポール四本 ㈡杭一尺五寸もの二十本、二尺もの二十本 ㈢人夫二人 と云う記録がある。これがカキ大養殖場設計書を作る為めの測量であつたのだ。 かくて百四十余万円の計画書も出来上つたから、女川町民は随分と喜んだまではよいが、工事未着手のまゝ内田知事は商工大臣として栄転したので、遂にこの大計画も挫折してしまつたことは遺憾である。若しこれが実現してあつたとすれば、産業上は勿論港湾発達に大なる貢献をしたことであつと思われる。 二〇、終戦前後の外国人 支那人として本町に居住して居た者に許時来という反物行商人があつた。妻は出島の人だけに、地方人からよく親まれ十数年も居た。その子供に許正夫という学童があつて今の第一小学校に入学したいと父親がつれて来て申込んだ。時しも支那事変最中の頃で学籍上困難さもあるから、母の子にしたらどうかと話したが、私の唯一人の子でもあり、将来福建省の自分の家を継がせたいのであるから、支那人たる私の子にして置きたいというので、その情にほだされ職員協議の結果、出席簿にだけ載せて出欠をつけ、統計には一切加えないという臨時の処置をした。その親は終戦間近かに病死し子供も学校を中途退学したように聞いている。 次の一人に陳遠信という人物がいる。大正十一年頃かう本町に時折来て反物その他を行商し、昭和九年からは反物屋として小さな店も出して居たが、戦争が激しくなつた十九年には疎開して岩ヶ崎に住み、同二十二年再び来町して芳蘭という中華そば屋を開業し、今日に至つている。齢六十は越えているだろうが、真の永住地と思つて居るらしく、地方民との交際もよく、愛嬌もあり客からも愛されて居る珍らしい支那人である。 朝鮮人は今こそ外国人ではあるが、戦時中は日本人として自由に居住していた。しかし言語や風俗習慣が異るので 地方人との結婚などまでは溶け込まなかつたが、小学校などは何等の差別なく取扱い、児童仲間も別人扱などはされず、級長に選挙される者もあつた。戦時中戸数からいつたら廿戸位はあつたと思う。ところが日本が大戦に敗け、朝鮮が日本から独立したと伝わるや、保安隊というものを組議し、腕章をつけて交通整理を我々がしてやると威張り出し、大混雑の駅の改札口に数名宛立つて駅員を指揮するが如く、我々を被征服者とでも見てる態 979 979

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