女川町誌
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この後海上保安庁に灯台運動に行く毎に、係官に陳情懇請したけれどもらちあかず困り切つたが、秩序回復と共に工業も回復し、朝鮮事変等も手伝つて鉄の価格高騰するや、民間人の請負となり着々解体引揚げが行われたが、意外に泥砂をかぶり殆ど三十二年までかゝつて完了した様子である。この間に船内より軍人の遺骨が屢々引揚げられたが空襲の項を参照せられたい。 一八、みくに奉仕団 終戦後の新しい奉仕団に『みくに奉仕団』というものが生れた。昭和二十年十二月の河北新報に、栗原郡築館を中心とする青年三十数名が干柿・干栗・餅等を持ち寄り之を神前に供え、一同神職の祓を受け、神前に祈願の祝詞を奏上して頂いて心身を清め、志を新にし軽装申斐々々しく上京した。当時は食糧急迫時代であるが、左翼糸の某氏等が大膳寮を検査したなど報導せられ、宮中も窮乏のドン底にあらせられた頃である。当時内務大臣緒方竹虎氏の秘書長谷川峻氏(築館出身)がその団長となり、防空壕生活の両陛下にお目にかゝり、青年達のお土産品を呈し、清掃奉仕と御機嫌伺に参入した旨申上げたところ、殊の外お喜びになり、宮中の一部を一週間清掃して帰郷したということである。この記事を見て筆者は甚しく感激し、長谷川氏に次の書簡を出した。「左翼主義勃興時代の斯様な運動であるから金の出所はない。そこで貪しい私のポケットマネーでやるのだから、汽車賃と一泊の宿料しか差上げられませんが、講演にお出で頂けませんか」。数日して喜んで行くという返信を得た。この由を町長須田金太郎氏に話したら、よい仕事だ町費で助成したいが、今の思想界だからそれが出来ない。依つて僕のポケットマネーを寄附すると言つて金七拾円頂いた。これはその旨話して長谷川氏にそのまゝお渡しした。講演会の準備としては一晩だけ黄金座を借り受け、一方三十枚ばかりのビラに長谷川氏の略歴と会場日時を書いて、町内各所に貼りつけた。聴衆は青壮年から老人まで約百五十人あつたが女は少なかつた。講演の要点は、自分は久邇宮様にも仕えたので、宮中には度々参入して宮中の様子はよく知つている。両陛下は今尚(二十一年一月)防空壕の中の御生活で、共産党がやかましい為か、米の献納などは絶対受附けられず、国民同様の配給生活で甚御不自由な状態である。宮殿は殆ど爆撃され、瓦礫が散乱して実に目もあてられない惨状を呈し、何時になつたら復興するか、殆ど見透しがつかない。この状況を築館の青年に話したら彼等は奮起して干柿・干栗・供え餅をお土産に御機嫌を奉伺し、清掃をして来たのであるが、今後国民の至情を以つて、あの瓦礫清掃に当つてもらいたいものと私は念願して止みません。ということであつた。然るにその夜、長谷川氏の宿舎丸竹に二名の青年が来て天皇制は無用だ、廃止すべきものだと二時間も長谷川氏に喰い下つたものだ。 この講演が種子をまいたわけでもあるまいが、昭和二十二年末頃から、みくに奉仕団に行きたいという男女青年団の動きが胎動し始めた。この頃は女川にも明確な共産党員が十四名もあつた。何れも三十才未満であつた。而かも左翼党員であることが一種の誇りでもあるようにしている者さえあつた。 戦後女川町全区域を網羅した連合青年団が、昭和二十二年に 977 977

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