女川町誌
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よぢ登つたら神社がある、三拜九拜して乱れた髪、すりむけて血だらけの腹、ふらふらする足どりで木村漁業会長の宅にたどりつき事の次第を話したらその暴挙に驚かない者はなかつた、かくて在島三十余名の生命を救うことが出来たのである、その上陸地点が風光明媚で鯛を釣つたというお伊勢崎である。後阿部氏は須田町長と県農会長より表彰された、昨二十八年秋フトした事から阿部氏が法務省の官吏となつて東京に居ることがわかり文書で久濶を慰し共に喜んだのである。」 一四、徴用及び勤労報国隊 昭和十八年九月二日の役場日誌を見ると、勤労報国隊帰町と記して居る。このころは既に町内産業別に勤労報国隊というものを組織して、軍事施設等に順次出役したものである。矢本の飛行場建設工事に馬車を所有している者の報国隊もあつて女川からも行つた。戦争が次第に苛烈になるや、女川港に駐在する防備隊の施設に、或は計画造船遂行の造船場に、御殿山の電波探知機隊建設等々に徴用として、一定期間有料で出役させられたが、二十年五月三十一日には女川町女子義勇隊結成式を挙げ、六月十八日幹部会を開き、その決議によつて三部落及び港周辺の部落会より、防備隊電波探知機隊等に対し、建設資材運搬に無料にて一、二日間の勤労奉仕をしたこともある。 十九年七月十七日石巻地区女子勤労報国隊が組織せられ、女川町もこの中に含まれた。八月三日には女子挺身隊なるものが出発している。これは女学校生徒隊で鹿又実科高等女学校は、主として地方農家の手不足な所に行き、農耕を手伝つて食糧増産を計り、或は船岡の火薬廠に行つて運搬を手伝い、石巻高女や家政女等は県下の高女と共に、横須賀方面に出勤して空襲下の軍需産業に十日位従事したものもあり、女川町出身学生はこの三校には皆参加している。石巻中学校・同商業学校等も、小牛田方面の鉄道複線工事船岡の火薬廠及び矢本方面農家の手伝等に行つたが、これ又女川町出身学生は皆参加して居たのである。 外地に徴用されて行く者は応召軍人と同様役場の二階の神前に於て壮重に武運長久祈願祭を執行し、見送りも役場は勿論町内関係者の盛んな見送りがあつた。明確な記録はないが昭和十八年九月十三日網島丸外四隻徴用の時は、県水産課より知事代理として近藤技手参列し、船員壮行式を役場の階上に於て挙行し、十八年十一月四日南方の石油積取船団壮行式は、駅前通り海岸の県漁聯魚市場に於て、女川町と県水産業会と共催で挙行し、二十年三月一日南方輸送特行隊の壮行式も、前同様海岸に於て船を前にして行われたこと等は、役場日誌にも記載されて居たが、少数の場合は軍人と一緒に祈願祭を挙げたこともあつて明確でない。この一事を以てしても大東亜戦争は如何に協力態勢が、国民すべてに滲透して行われたかが推察される。 一五、電波探知機隊 大戦激烈となり、国内に空襲被害を見る頃になつてから、御殿山一帯に電波探知機が張られた。宿舎は山麓石浜に建て約百二十名位の隊員が駐屯して居た。山上建設の際は各戸からと、学童の労力奉仕で資材の一部が運搬された。電探機は羽黒大権現趾(尾浦御殿趾)附近を中心として、田の浦の上の山、保福 973 973

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