女川町誌
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し、四周にコンクリートを築き水量一石位溜るようにし、側に洗面所を造り約一週間にして使用するようにしたが、必要あれば今でも使用可能である。第二問題の便所は止むを得ないから八名で便所をかつぎ岩の急傾斜の所に運び支柱を十分にしてその斜面からたれ流し式に改めた。これはうまく行つて最終まで使用した。足島に泊つて掘るようになつたら俄に採掘量が増加したので、五百俵位積む幸運丸だけでは運びきれなくなつたが、戦後で運搬船がないので止むを得ず、石巻の水押に繫留している上陸用軍用舟艇を五隻借りようとして、県や米進駐軍に交渉してみたが許可されない。江島・鷲神・指浜等の船でも運んだが小型で問題にならない。困りきつて居たら出島の日の出丸を賴むことが出来て、一回に千俵位運べるようになつたが、今度は女川に当時唯一台だけの荷馬車で駅までの運搬が間に合はなくなつた。今の電報電話局前からトロリーをかけようと計画したが許可されそうもない。荷揚場の前(今の新田屋の所)に五十坪の倉庫を立てゝ入れたが数日にして俵が腐つてしまう。岩出山の戦時工場に行つて馬車二台注文しサンマや鰹まで何回となく背負つて行つて拜むように賴んだが、注文殺到で漸く一台出来た時は二十二年の夏近くで十日位も使つて燐鉱石の輸入見込が立ち事業は急に下り坂になつた。最盛期は昭和二十一年で小牛田の伊藤芳雄父子、涌谷の佐藤兄弟、石巻西村境の阿部丑治郎(阿部については別項参照)の五氏は職業として終始足島に宿泊して最後まで専ら採掘に従事したものである。本部の事務所は役場の廊下に一区劃を構え相沢主任・菅野県農派遣監督、それに職員としては中頃交迭もあつたが、遠藤慶司・植木善次郎・高橋作治・平塚武・阿部たき等絶えず四名でテンテコ舞して全般的企画運営・荷揚と汽車積込・採掘受附と採掘隊の精算等々に精励したのであつた。 足島にはよい湾もなく北西岸平ひらの前に県の漁港施設課長成沢 技師の設計で仮木造桟橋を造つて積み出したが、二十年の冬北西風で大破したので更に改造強化し、一方採土は次第に距離遠くなると共に量も増加したので、二百米位トロ線を借りて二か所に敷き、五台の台車まで新造したから迚も坂を肩で運び下るようなことでは間に合わなくなり、桟橋まで辷り台を作つて下まで辷らせた。緩急と俵の破損防止の為めその調節に大なる労苦を重ねたが、創業には予想の出来ない無駄もあるものである。倉庫は足島と女川に五十坪糞土五百俵位宛も入れて降雨に備えたつもりであるが三日位もすると俵がくされて雑品を入れたり空俵を(常に千俵以上あつた)入れて置いた位のものであつた。露天に採掘した俵を置いて、少し強い雨に打たれると捨てるより外ない。運搬経路を見ると俵につめてトロに積み、之を 平ひらまで運んでトロからおろす、それを辷り台で走らせて下の桟 橋で受けとめ、そして船に積む、女川に来て荷揚げする。馬車に積むホームに重ねて置く、そして貨車に積むというわけであるから、足島で俵に詰めた量の三割は貨車積みまでにすたる。荷受人から苦情が来るがどうすることも出来ない。最盛期の頃は自分が掘つたものは必ずしも自分の町村に行かないことを知るや指揮者の命などは聞かず無責任にも既に表土の肥料分ある所は採り去られた場所であることを知りつゝ唯採掘俵数のみに走り、底土心土を近距離の所から採つた部隊も相当あつたので 970 970

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