女川町誌
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各部落姓氏別戸数調方は明治十年の戸籍簿では、小屋取と塚浜、出島と寺間の区分は出来ない。明治十年頃は維新以後、未だ女川地方には特別の変化も発展もないから、移住者転住者が少なく、多年その土地に住みついて居た者が多かつたと見え、全部落阿部であるとか、木村のみの所があつたり、それ程でなくも或姓が大多数を占めているという状態が多いことは面白い事象である。又各部落の戸数の差が今日のように甚しくない。これは農林業や沿岸漁業のような一次産業のみを生業としていたから、何所の部落も発展性が乏しかつた為めであると考えられる。それが今日になると、何所の部落も世帯数の自然増加と、幾分の転住に伴つて、一部落同一姓氏の所がなくなつたことは共通であるが、商工業という二次三次産業がグンと発達した所になると、女川部落が五十八戸だつたのが七百二十四世帯となり、鷲神部落が二十六戸から九百三十五世帯と甚しく膨脹した所もある。斯様な異状な増加を見た所は、町内の他の部落から或は他町村他府県等からの移住者も多く、従つて鷲神の如きは明治十年に姓氏が僅四種類であつたのが二百八十六種類にまでなつていると言うことは、如実にその消息を物語つて居るものである。 この調査によりいろいろの研究が生れて来ることと推測される。特に近時に於ける各部落の戸口の増加や、姓氏の変動は、地域社会の発達推移を雄弁に物語るものである。取り分けて近代文化の地方進展に伴う各種事業の分化と機械化の傾向、それに観光事業の発達などが、陰に陽に地方民の生活情態や戸口の移動に影響を与えていることを見逃すことが出来ない。次の調査はかような意味に於て種々の角度から見て極めて興味のあることである。42

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