女川町誌
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イ、通学は班別(二〇名前後)に整列して ロ、長期休業中は班別に集合して復習会・ラジオ体操・遠足・軍人及び遺族慰問費を勤労して調達する。 ハ、戦死者の墓地掃除と墓参をする。 ニ、遺族に慰問品贈呈(花と竹箒)する。 ホ、出征者に新年と暑中に慰問状を出す。 ヘ、部落内の遺族に家庭作業の手伝をする。 ト、一般の道路清掃と小破修理を奉仕する。 戦後の教育は現行の教育であるから省略する。 一〇、出征者と町葬 支那事変の開始は昭和十二年七月七日である。当時は出征者の武運長久祈願祭は懇切丁寧で、戦病死者の遺骨が来るとその出迎も町葬もまた壯重なもので、政府からの賜金も待遇が厚かつたのである。然るに大東亜戦争となるや回数も人員も多く、更に終戦前後となるや、一層甚しく役場にしても、各家庭にしても人手も少く多忙を極めているから、すまないとは思いつゝも自然簡略を旨とするようにならざるを得なかつたのである。今役場の日誌に記載されただけの記録を挙げて見ると 出征者の武運長久祈願祭 十八年十六回・十九年三十回・二十年十五回 戦歿者の遺骨到着 十八年九回・十九年十回・二十年十四回・廿一年二回(二十七柱)・廿二年一回(十五柱) 町葬 町葬は大体その都度行われてあつたが次第に数回分一緒に行うようになつた。十八年には五回行われその内七月三十日は十五柱、八月三十日には十六柱であつた。十九年には五回行われた。廿年には九月二十七日百十一柱の合同慰霊祭が女川国民学校で行われた。 廿一年には十五柱を遺族会主催で照源寺で行つた。このころから神社も宗教であるとせられ、神葬も仏葬も共に宗教行事であるから、町村主催で行うことが出来ないとされた為めである。戦争裁判によつて、上級軍人が戦犯の罪科を受けたが、国民の義務として徴集された兵や下士官まで、町葬はしてならない遺族仲間で勝手にやれという時代になり、戦犯扱に準じられるような冷遇を受けるようになつた。筆者を始め遺族になつた者は腹立たしいやら情けないやら、之れをどこに訴えれば気がすむのやら泣いても泣いても泣き足らないような気がした。夫に死なれ、息子に死なれても国家が知らんふりとは聞こえない話ではないか。戦え戦えと戦わせて死なせて勝手にしろとは何事である。それが二十六年の講和条約締結により始めて独立国家となり、二十七年より遺族扶助料が支給され、二十八年県主催町主催の合同追悼式が最壯厳に執行され、続いて三十二年にも町主催の追悼式が行われ、又本年春の国会に於いて学徒徴用死歿者等も含めて兵下士官を中心に大巾に遺族扶助料を増額せられたので、遺族も地下の霊も漸く国から認めてもらえたということになつた。別項にあるが女川町の戦死病歿者は約四百八十人である。 966 966

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