女川町誌
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ものである。次に大戦突入時代の教育思潮を如何様に学校施設に具体化してあつたか例を女川小学校にとつて大畧列挙して見よう。 ㈠ 昭和十一年より十六ミリ映写機ベル十二号を設備し、毎月 一回教育映画(情操教育理科教育物)をなし町内各部落をも 巡廻した。 ㈡ 同十二年より拡声機及電蓄を設備し朝礼・少年団訓練・運 動会に使用し、且つ聴取室を設けて国語・修身・音楽等の教育に資し放課後定期に教員向放送を聴取した。 ㈢ 同年体育施設として高鉄棒五・低鉄棒一〇、ラワン製革張 跳箱四、平均台四、腰掛七〇、ズック製マット二・攀登棒四砂場間口五間奥行二間・学校前の望郷山(三百米)に道路を作り全児童毎月二回登山。 ㈣ 理科の内化学に属する部分は八人一組として学級全員に実験せしめた。 ㈤ 高等科には青年学校と兼務の農業教員と水産教員とを設置 した(水産教員は昭和十六年以降) ㈥忠霊室を設け神棚を造り町内戦死者の写真を掲げた。 ㈦同室に戦地より寄贈された次の諸品を陳列して支那に対す る理解を深めた。 イ、抗日排日思想。抗日の彫刻ある青竜刀。辱恥記念日の記事ある教育雑誌、日本の不法と浸畧のパンフレット四種 ロ、児童作品書方・図画・手工・綴方約百点 ハ、教育制度小册子一・教授案三(日本と殆ど同様) ニ、教育雑誌五册 ㈧ 同十四年望郷山に明治神社を建てて出征者の武運長久を春 秋二回祈願した。 ㈨ 同十六年戦死者の為めに職員児童の勤労により照源寺に忠 霊塔を建てた。 ㈩ 同十四年より紀元二千六百年記念事業として子供等の心のふるさとを造るべく三か年に亘り松八千本の植樹をした。 観光地として又名山たらしむべく次の碑を望郷山に建て裏面に植樹のここも書いた。 少年団の組織目的は省略して主なる実施事項のみ掲げる。 望郷山頂の碑(有井凌雲氏作並に筆) 965 965

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