女川町誌
1029/1094

支出差引残金壱万百参拾五円九拾弐銭 尚昭和二十四年三月廿七日の町議会に於ける二十二年度の決算に説明の記載がないから詳細はわからないが、収入済額九三、〇六八とあるから前記の未収入分はほゞ収入せるものと思われる。又事業未払予定額に対しても一一九、七五一円支払済となつてあるから、これも完済したものと推定し、この事業の会計については筆をとめる。 然るに当時の金額と事業の性質からすれば、町としては未曾有の緊急大事業で供出米が殆どない。女川町が一人の餓死者をも出さずにこの危機を通過し得たということは、実に当事者の指導と町民の協力の賜ものであることは後世に誇るべきことである。 家庭生活の実情 食糧の最も心配された昭和二十一年はシラスも小女子も大漁であつたから町は県の操作米に対する供出は十分果すことが出来登米・遠田・栗原方面から政府米が或はトラックで、或は鉄道で到着したからどうやら基本的配給は出来た。又遠洋漁業も開始したがこれも大漁である。町はこの鰹を確保して町民に配給したから、物々交換隊は石油罐につめ、氷を入れて背負つて県内、奥地の山村は素より、遙々山形・秋田まで行つた者もある。この人々が鉄道乗車のなやみは交通の項で見ればよくわかるが、斯様にして最も危険だつた夏場が過ぎ、新米が出始める頃になると、暗米運搬販売を本業とする者も生れて来たから、餓死という心配は大体解消された。 斯様な食糧不足の中にあつて家に居たまゝ米と交換出来た人は自家製塩をした人、製炭業者、製塩業者であつた。これ等の人々は一般人が種々の混食に飢をしのいで居た時も、終始銀飯を食い続けたと後日語りをしている。 筆者の餓死突破計画 戦時から終戦後にかけて、女川には大都市から身寄りを尋ね 959

元のページ  ../index.html#1029

このブックを見る