女川町誌
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の乗降を固く禁止しているのではあるが、止むを得ない実情を見て親切な駅員はそれを援けて詰めこんでくれたものである。 終戦となるやこれが又一段とむづかしくなって、非常な混雑である。その理由の一つは一般的に無責任不規律な気風が強くなつたことである。昭和二十一年には餓死者が出来るだろう、食糧を獲得せよの掛声が更に拍車をかけて、乗車券獲得が驚くべき光景を呈するようになつた。先ず昼食を持つて駅に列を作る。一日では買えないので終列車が立つと当日の番号札をもらつて帰宅する。そして翌朝その番号札の順序に並ぶ、斯様にすること三日位に及び栗原なり山形なり米所への乗車券を求め、罐々部隊となつて行くのである。他の方面も米買いばかりでなく終戦というのでザワメイて用件が多くなつたらしい大変な交通地獄とでもいうべき状態になつてしまつた。上野駅から乗車するには定刻より二時以上早く詰めかけないと座席にはありつけない。だが闇切符屋がコッソリ忍び寄つて来て切符買いましたか、座席券いりませんかという。金さえあればの世の中である。斯様混雑の中にあつて誠に傲岸横暴な奴は、東北から東京方面に闇米を運ぶ連中であつた。一車輛に五、六人位乗込んで混雄してる。通路を傍若無人に歩く或は客のおつかゝりを渡つて歩く、他人の荷物を誰彼の別なく無造作に片づけて自分等の米をよい所に置く、網棚の荷物を一方に片寄せてその網棚にねる。憤懣にたえないが彼等の態度がすさまじいので皆黙視してるのが常である。斯様な光景は昭和二十三、四年頃までは続いたようであつた。女川には裏大原村方面や五部浦めぐりの船、江島行き、北の浜々を雄勝まで或は船越方面まで巡航する船があつた。これ等の巡航船は米部隊は勿論地下足袋・反物・ゴム製諸物資の行商人など随分乗客があつて定員などいう言葉は全く通用されて居なかつたらしい。昭和二十一年三月二十三日午後三時発、尾浦・雄勝方面行きの金華丸(二十二屯餘)が将に出航せんとして居た時は北東風に小雨交りなので船室内にはぎつしりと詰まり残りの人は僅かの物が甲板に立ち、大部分は雨を避けて岸壁寄の通路に固まつて乗つて居たのである。場所は大福堂菓子店の前であるが岸壁水中の一部に五寸位の巾で二十間位出てる部分があつた。船の横腹がそれに乗つて居たから大勢片側に乗つても平均が保つて居たのに、イザ出航と岸壁から離れるやその方に船がグンと傾いて水が浸入した。乗客は驚いて沖の方に寄つた。すると沖の方から水が浸入した。交互に水が浸入して船室内の人は殆ど溺死し外部に居た人は、僅か十米もない位の所であるから大部分助かり甲板に居た人は腰位まで水に漬つて助かつた者もある。大騒ぎとなり役場から駆けつけて見ると揚げられた死体はまだ腹が温かい者もあつたので人工呼吸をやつて筆者も二名蘇生させた。死者の総数百三名生存者総数百二十九名であつた。死者並に生存者調は次の通りであるが、三十屯にみたない船に二百三十余名乗るような当時の交通事情を察すべきであるが、溺死者の大部分が大型リックに米を一パイ入れて背負つて居ることも同情すべき光景であつた。 遭難死亡者調951

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