女川町誌
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唯一人留守居して居る杉並区阿佐ヶ谷の森の中の筆者の女婿の許に行き、不安の中に一夜を明かし、早朝上野から帰途についたが三日後にこの居宅も焼夷弾でやられてしまつたのである。ホットした安心感を味わいつゝ窓外を眺めて新地と相馬の中程に差しかゝつた時、桑園に働いて居た若者が空を眺めるやあわてゝ丸くなるようにして我が家の方に駆けた。妙だなと思つて車窓から空を仰ぐと四発のB二十九爆撃機が五機翼を連ね我等の汽車などはかえり見もせず誠に悠々と北方を目指して飛んで行つた。後に聞くとそれが郡山の工場空爆であつたのだ。 帰町するや町長は部落会長を招集して㈠一米当り三百円の国庫補助を受けることになつた。㈡町有林の樹木を無償提供する。㈢従来の間に合せ防空壕を撤去して規画に合つた防空壕を作れ、(イ)抗木を用いること。(ロ)坑道の上は二米以上の厚さを要すること。等厳格であると共に木村総務課長が主任で督励これ努めた。当時数名の朝鮮土工が仕事上手で非常に重宝がられたが土工連は皆引ッ張だこであつた。がしかし期日を定められてる突貫工事であるから、掘り方や抗木の立方は本職の土工にやらせ土石の運搬抗木の切り方や運搬は各部落会で人夫を出し完全に協力態勢がとれて工事はよく進捗した。七月七日防空総本部より山内技師・峯岸技手・杉平属本県よりは砂防課長・地方事務所長一行が来町し、現状を実査の結果、「仙台・石巻・塩釜等は予定の三割にも達しないが女川町は割当の略々十割に近い。これは町民に真に軍に協力する熱意があるからで、約束の通り五百米補助の対象とするが、希望があればその上も許可する」ということになつた。従つて各部落会は人口に応じ必要なだけ構築し北伊勢部落が八月八日最終に完成したら、その翌日九日午前五時半晴朗なる東天からグラマン戦闘機が四、五機御殿峠を越して、西に向つて来た。昨日は矢本の飛行場が爆撃されたというから、今日もかと言つて居たら浦宿まで来ないうちに機首を北方に転じ黒森方面から急降下して機銃掃射をして来て要所に爆弾を投下して洋上に飛び去る。或る編隊は御殿山から石浜・宮ヶ崎・鷲神と攻撃して望郷山の上に飛び上る。電線にふれるばかりの低空爆撃の勇敢なる行動を目撃した者は皆驚かない者はなかつた。一隊は大体五機でそれが飛び去つてホット安堵の思をするとすぐ次の一隊が来る。朝の五時半頃から夕方の五時頃まで二日間ブッ通しで港内の中心部の軍事施設は勿論それに連関あるものは殆ど爆破されてしまつたから、軍隊も町民もガッカリしてしまつた。しかし空襲となるや町民はサッと実に見事に防空壕内に退避して完全収容唯の一名も死傷者を出さなかつたことは町当局の苦辛の結果であると言つて決して過言ではない。宮崎の防空壕の如きは約五十名が入つて居たその頭上に五十キロ爆弾が投下されその爆音と振動には生きた心地がなかつたそうだが規画通り構築したので無論死傷などなかつた。この空襲の前に仮兵舎であつた駅前の民家は第一着に爆破され駅周辺が掃射を受け役場にも弾痕があつた。次は福田造船所附近(新魚市場附近)で御殿山の方から掃射して来て福田氏の側に置いたトロ線十本の所に爆弾が投下され、その十本が揃つて六米道路向の山田氏宅の屋上に土砂と共にはね上げられ、その附近一帯は土砂をかぶり鷲神方面からは全滅になつたように見えたそうである。湾内には一の鳥居附近に、陸地に接して 945

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