女川町誌
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二十年の三月には東京の大半即ち品川方面から大体省線電車の南方を上野方面まで、それからは電車線の両側共浅草両国方面より千住の方まで見渡す限り焼土と化し、四月十二日は郡山工場地帯が爆撃されたとの報が伝わつて来たから戦々兢々たるものがあつた。当時軍部から民間に伝わつて来る言葉に本土作戦という術語があつた。それは外地では敗色濃厚になつたが決して心配することはない、B二十九もグラマン戦闘機も内地の守りを固くして置いてそこに引寄せて殲滅してやるという意味で、政府は主要都市に防空壕を作らせ、住民をして空襲の際一時的に避難せしめ、その土地に成るべく止まらしめようという考えらしかつた。しかし大都市から婦女子は既に田舎に疎開せしめ、或は学童として団体で本県温泉地に幾組かの疎開もあつた。三月下旬の河北新報に政府は国内主要都市の住民に、国庫補助一米当り参百円を出して自発的に防空壕を構築せしめることゝなり、宮城県では仙台市・石巻市・塩釜市のみ該当するという記事が見えた。町長須田金太郎氏は木村(主)総務課長を伴い出県して女川町は本県内町村の中では人口の多い方である、而かも海軍の防備隊と特殊潜航艇隊などが基地を設けて、天然の良港湾を利用する敵の上陸作戦・艦砲射撃・空襲等に備えて居るから、町も町民も予想して協力態勢をとつて居る。従つて女川は特例とせらるゝように強硬に交渉して承諾せしめ、内務省防空総本部にもその旨連絡をとつた。 越えて四月九日木村(主)総務課長と相沢銃後奉公会主事は町長から旨を受けて上京し防空総本部長に面会した。時しも東京は三月の空襲で大半焼土と化し会見中も何回となく空襲警報がけたゝましく鳴つて来た。しかしあの頃は両者共肝ッ玉が据つて居たものと見え、警報などによつて動こうともせず、係官と強引に談判した。係官はこの補助なるものは市だけを対象としたもので町村には如何なる事情があつてもダメである。防備隊の如きは全国の海岸どこにでも居る、何等問題にはならないと撥ねつけ、更に之を見よと全国許可一覧表を出しこの通り町村は一つも対象にはならないではないかと頑として聴き容れない。我々も町民の生命と国への奉公という一念から空襲と警戒の警報が矢継ぎ早に来るが、更にねばつて説明した。曰く女川港の特殊潜航艇隊も防備隊も、町内の適地を選んで人員相当の頑丈な防空壕を構築し、敵襲の際は一時退避することが出来る。 然るに町民は退避壕がなかつたら敵弾にさらされ一たまりもなく撃滅されるばかりで郷土を死守し軍に協力せんとしても得べからざることである。左様な目に見える馬鹿げたことをせよと町民に命ずることは出来ないから、敵襲がある際は軍に協力せず逃げよと命ずるより外に道がないことになる。依つて政府は女川町民に対し、軍に協力する必要がないとか、逃げてよいというお言葉を頂けば、防空壕補助をあきらめて帰りますと迫つたら流石頑強な係官も当惑の体で「逃げろとは言明されない、どうも困つた、仕方がないから全国で唯の一か所だが特例として女川町に延べ一千米だけ補助することにする。五月末頃検査に行くが構築成績がよかつたら、更に五百米許可する」という許可証を得て辞去した。さて交通の不便と危険のため夜行では帰れない、宿泊しようとしても空襲が心配で旅館のありそうな繁華街には行かれない。止むを得ず家族は女川に疎開させて944

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