女川町誌 続編
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は尽きることがなく、しかも今なお新鮮である。 よく食事に通った石巻屋の阿部正さん、仕事上でお世話になった山大の木村長作さんといった知己との出会いもあった。浪花節の好きだった私には、虎造、綾太郎、富士若らが黄金座で楽しめるのは有難い限りであった。夜の海岸では海水を汲んで塩を焼く火が美しかった。人々はこの塩を担いで山形方面に出かけ米と交換したものである。 青年団主催の演芸会も賑やかだった。「ゴシェッパラヤゲル(腹が立つ)」「オチル(降りる)」といった方言も東京育ちには珍しく、今も記憶にある。 私は年を重ねるにつれていや増す女川への思いに引かれて、四十年ぶりに再訪を果たした。見違えるほどの発展を遂げた町の様子に驚かされながらも、昔をよみがえらせる厚い人情は変わっていないことを知り、女川の魅力はこの一点にあるのだとひとり合点した次第である。 三 女川と私 夢ばかり追いかけていた。海を眺めれば海の向こうには何があるのだろうとか、夜空を眺めては星空の美しさにため息をつき、本を読めばその世界にのめりこんだ。本はよく読んだ。小学校に入って間もない頃、北海道の従姉が送ってくれた子供用のシェイクスピア全集から始まり(これは又、挿絵がとても美しかった)、中学の時にはゲーテと志賀直哉を。そして藤村の詩集はその頃ほと 佐 藤 幸 子 んど暗記した。高校に入ってからは図書館の世界文学全集を片っぱしから乱読した。 体が弱かった事もあったし、友達が出来なかったためでもあったろう。小学校の行き帰りは石を投げられていじめられ、よく泣いて家に帰った。私はよそ者であったのであろうか。中学に入った頃、算数も国語もどうでもよかった。嫌いなのではなく勉強はどうでもよかったの 538
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