女川町誌 続編
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その後終戦直前の女川空襲の凄じさを耳にして、私は他人事ならず心を痛めたことであった。私の退隊後司令は富沢大佐から現役の副島大佐に代わった。 新聞等で折に触れ女川の名を目にするにつけ、遠い昔に思いを馳せるとともに、女川町の発展を祈らずにはおられない。 二 女川で社会人のスタートを 大和デザイン(株)社長(元理化食女川工場員) 菊 地 勇 一、 理化学食糧工業(略称、理化食) 終戦から昭和三十年代にかけての物資窮乏の時代は、代用品時代とも言われる。この時期仙台に代用正油組合という公的機関があって、組合員は原料用塩の配給を受けられるが、製造品を供出する義務を負わされていた。 私達の理化食女川工場(工場とは名ばかりの納屋)は鷲神浜にあり、海藻のカジメとカツオの煮汁を混合し、カツオ汁の酸分解によってアミノ酸正油を製造し、この組合に加入していた。配給の塩はわずかだったので、なるべく塩分の多い煮汁を得るため、私達は比重計をポケットに入れて加工屋の納屋をシラミつぶしにたずね回ったものだ。 製造コストが高く、採算割れのためこの代用正油の製造は程なく中止となり、コウナゴや海藻の佃煮製造に切り替えられた。理化食女川工場を町の人々は「リケン」の愛称で呼んで親しんでくれた。 二、 忘れじの女川 私が女川に赴任したのは昭和二十一年五月半ば、トンネルを抜けてすぐの駅に降り立つと、構内のソメイヨシノが満開であった。軍服姿にリュックを背負いトランクを提げ、夜行列車に揺られて疲れ切った身をやさしく迎えてくれた港町の春の装いを私は一生忘れない。私は二十四歳であった。 わずか一年そこそこの女川生活ではあったが、思い出 537
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