女川町誌 続編
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はじめに 女川町の埋蔵文化財は、昭和三十五年発刊の『女川町誌』の第二章第一節古代の女川のなかで、故三宅玄げん雄ゆう・三宅宗しゅう議ぎ両氏によって通史として紹介された。続編では、各遺跡を所在地、概要、時期・型式名、人工遺物、保管の項目ごとにまとめ、遺物の資料化に努めた。そして、遺跡の性格と内容を明確にし、町内の埋蔵文化財の重要性を再認識してもらうと共に、保護の必要性を理解していただきたいと思う。 女川町は、北上山地が伸びる牡鹿おしか半島の付根部分に位置し、南北に走る尾根を境に、仙台湾の一部の万石浦が西側に、リアス式海岸の三陸海岸が東側に広がっている。 現在、遺跡は四六か所(板碑を除く)確認されており、縄文時代34(前期16、中期12、後期10、晩期9)、弥生時代8、古墳時代3、奈良時代10、平安時代19、中世5、近世3の内容である。貝塚は七か所でいずれも鹹かん水産の貝類で構成されている。分布を地理的条件と併せてみると、内湾性の万石まんごく浦うら地域と外湾・外洋性の五部ごぶ浦うら、女川、北浦、島嶼とうしよ地域の大きく二つにわけることができる。前者は、浅海の内湾で海岸線に近い位置に遺跡が形成され、貝塚の集中がみられる。マグロの椎骨等もみられ、縄文時代には内湾までマグロが回游かいゆうして入り込んでいた可能性が大きい。万石浦地域は面積的には狭いが、町内の半数の遺跡があり、縄文時代の前期から近世までの連綿とした歴史が展開されている。特に、針浜地区は中世の館跡、板碑、経塚、金鉱跡などの他地域にはみられない遺跡や伝説があり、女川町の中世~近世史を語るにはなくてはならない最重要地域であり、中世における中心地であったと言える。万石浦地域は現在の石巻地方との交流が容易にできる地理的条件を備えていたといえる。後者は、小さい入り江ごとに遺跡が点在しており、海岸段丘の端部に立地し、規模的にも小さく、遺物量も少ない傾向にある。ただ、出島貝塚のように、島に位置し、規模も大きく、特徴ある遺物を出土している遺跡もある。 以下、各遺跡を地域ごとに紹介する。 442
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