女川町誌 続編
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白幡大納言伝説の起源に不審を抱かせるものであった。しかし、遠藤家には白幡姓から遠藤姓に変えたことについて次のような言い伝えのあることが後で分かった。遠藤改姓後の初代、助十郎のころ、同家はナマコを主にした海産物を伊達藩に献上するよう命を受けたが、中納言である伊達家に対し、白幡姓を名乗り大納言を祖とすることを公にすることをはばかり、改姓したという。こうしたことはあり得ることであり、『風土記』の記事が生んだ疑問はひとまず解決されたことになる。 太子堂には文政五年(一八二二)仙台の大仏師、佐藤甚吉作の子安観音像が併せまつられており、この像について現地で今も語り継がれているエピソードがある。『郡誌』にも紹介されているが、なかなかの名分なので原文を引用する。 明治初年盗賊あり。一夜塚浜の太子堂に忍び入り、堂内に安置せる観音像を盗み、逃走して咽のどケ崎に到りしに、その担いし像俄にわかに重量を増し、盗賊は押し潰つぶされ、手足縮みて一歩も進むこと能あたわざるに至りしかば、大いに驚き像を棄すて辛うじて逃のがるることを得たり なお、太子像は秘仏とされ、年一度の祭礼に、しかも早朝一時間に限って開帳され、不時に開帳すれば、拝観者の目がつぶれると信じられてきた。近時、ようやく文化財への理解が高まり、文化財保護委員会の調査など、場合によっては神事を行ったうえで、開帳の時間延長などの便宜が図られるようになったのは有り難い。 祭礼当日、塚浜の家々では、団子だんご入りの小豆あずきがゆを作り、これを食した後、取り分けておいた一部を供え物として太子像に参拝するのが習わしとなっている。 (注)この項を書くに当たっては仙台市博物館、登米町立懐古館の助言を得たこと、最近『牡鹿郡誌』が京都市、 臨川書店から復刻版として出版され入手が容易になったことを付記する。 402
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