女川町誌 続編
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記事が見える。『女川町誌』にも「地名の由来」、「観光」にその名は挙げられているが、内容は『郡誌』に比べても簡略に過ぎる。今のところ伝説に留まるが、白幡大納言と太子堂に関する話は、江戸時代以前の史料に乏しく、ほとんど霧の中ともいえる本町の中世に関する、珍しく具体性の濃い話といえるので再検討を試みることにした。 塚浜では「大家おおや」で通る遠藤家(当主養吉)に、「護良もりなが親王が鎌倉を逃のがれる際、供をした白幡大納言は最後に塚浜にたどりつき、この地で余生を送ったが、遠藤家はこの大納言を祖とする」という話が伝えられている。 大納言は死後、嶺山みねのやまに葬られたが、人々はここに塚を築き祠ほこらを建て、白幡社としてまつった。塚浜の名はこの塚に由来するという。後に小堂を建て、大納言の持仏、聖徳太子像をまつったのが太子堂であるとされている。 史実としては、護良親王は鎌倉で処刑されているが、義経伝説同様、各地に親王鎌倉脱出の伝説が残っており、本町針浜も親王が身を隠された地と伝えられる(『女川町誌』第一編「地名の由来」参照)。塚浜の場合は親王自身に関することではなく、親王を慕って鎌倉に 供した公く卿げについての話なので、親王の処刑後、ある時期南朝勢力下にあった東北に難を避けるといったことはあり得ないことでもないように思われる。白幡大納言が実在の人物ということになれば、針浜伝説の起源を考えるうえでも手掛かりになりそうだ。 遠藤家には大納言の遺品として、太子像のほかに銘家友の太刀一振り、銘大原真まさ守もりの脇差し二振り、それを納める革製、漆塗りの筒、護身用仕込み杖、からめ捕りといった武具と、水墨画二幅が伝えられる。このうち太刀は太平洋戦争中に町の有力者の手で軍刀に改造されたこともあって美術品としての価値はともかくとして、脇差しと共に時代 400

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