女川町誌 続編
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地元との接触を進んで求め、水産養殖の育成に力を尽くされた。博士はカキの研究では世界的権威者であり、退職後は松島・唐桑町舞根に研究所を設立し研究を続けられた。今井教授の下で本実験所に長く勤務し、後に県気仙沼水産試験場長を務めた酒井誠一博士は、現在も本町水産養殖業界の指導者として活躍している。 遠からず建て替えられる実験所の建物の中には、わが国の建築史上忘れられない建物がある。それは、昭和十五年(一九四〇)に建てられた研究棟(新館)である。戦時色の濃くなるにつれて、建築資材としての鉄筋の使用が制限 されたため、代用に竹を用いた「竹筋コンクリート」工法によって建てられたものである。この工法は、わずか一〇年ほどの短期間に限って見られるもので、もともと絶対数が少ないうえ、現在はほとんどが解体され、錦帯橋で有名な山口県岩国の美術館が建築史家の間で知られるだけである。 また、この研究棟には、終戦直前の女川空襲の際に受けた機銃掃射の跡が生々しく残り、前述の特殊工法と併せて、本町の歴史の声なき証言者として貴重な資料といえよう。解体の際には、工法と、機銃掃射の跡を残す壁の一部を本町が譲り受け、永久保存と展示を図りたいものである。 終戦前後に話が及んだついでに、ごく一部の人々にしか知られていないエピソードを紹介しておこう。戦後の食糧難で人々が苦しんだ時期、今井博士が土井晩翠を女川に誘い、実験所の宿直室でカキを馳走ちそうし、盃さかずきを傾けながら清談することが何度かあったという。実験所の来訪者芳名録に晩 371

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