女川町誌 続編
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から、町の発展策として原発の誘致を考えていた模様で、県の公表から半年も経ない同年九月の町議会が絶対多数で誘致を決議していることからも、その辺の事情が推察される。 わが国で原子炉の火が初めてともされたのは昭和三十二年であるが、その前年イギリスではすでに商業用原子力発電が開始されている。エネルギー資源としての石油の有限性が論議される中で、原子力発電への期待は世界的なものであった。原油の九〇㌫以上を輸入に頼り、しかも工業立国を目指すわが国にとって、原子力発電の推進はエネルギー政策の根幹である。しかし、その安全性については専門家の間にさえ激しい論争があり、原爆体験国という国民感情も絡んで、原発の是非は世論を二分してやかましい時代であった。 行政当局の積極的な姿勢から順調に進むかに見えた本町の原発誘致も、昭和四十四年に入ると、漁業への影響に不安を抱く漁民を中心にした反対運動が起こり、前途多難の様相を見せ始める。この年の正月早々に結成された女川・雄勝・牡鹿三町女川原発建設反対期成同盟による反対デモは四十八年までに六回を数えることになる。学生、労働組合などの外部からの参加者も加えた鉢巻き姿のデモ隊、林立するプラカードと赤旗、とどろくシュプレヒコール、盾を持ったものものしい警官隊、飛び交う報道陣のヘリコプター デモのたびに町を覆った喧けん騒と熱気は、一般町民にとっては初めての経験であった。同年三月、木村町長の奔走によって県開発公社と女川町側地権者の間に土地買収基本協定の調印が行われた。一方、六月には女川町漁業協同組合の総会で原発建設反対が決議され、反対派の気勢はいっきに盛り上がった。 原発問題がようやく町民の関心を引き始めた四十二年の町長選挙は久しぶりの激戦となったが、この選挙を勝ち抜いた木村町長は粘り強く原発誘致の利を説き続けるとともに、これまでの実績を通して培った県・国レベルでの発言 7
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