女川町誌 続編
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ったのかもしれない。 2 針浜金山 女川金山の南西、針浜南方約一㌖の通称向山北斜面に位置する。ここでは稲井層群伊里前層の粘板岩の層理に沿って玢ひん岩脈が貫いており、この玢ひん岩脈がさらに多くの石英脈によって網状に貫かれている。金は著しく熱水分解を受けた部分に含まれている。その中で特に硫砒りゅうひ鉄鉱を伴う部分は品位が高いが、大部分は含金トン当たり四~七㌘にすぎないといわれている。この玢ひん岩脈は一、二㍍の幅で、延長一〇〇㍍内外に達するが、平均品位が低いため現在は採掘されていない。 しかし、廃坑跡の陥没と見られる地形が残っており、そのすぐそばの「善五郎屋敷跡」と伝えられる遺跡の存在、善五郎は金山に関係あった人物と伝えられていること、さらには近くの不動尊旧跡(針浜・浦宿間旧道沿い)付近から江戸時代前期末、貞享二年(一六八五)建立の供養石碑が阿部平治氏(針浜屋商店店主)によって発見されており、かなりの有力者がいたことが推測されることなど併せ考えると、ここもまた古くは採掘の歴史を有する金鉱山跡であった可能性が強い。阿部氏によれば、善五郎屋敷跡近くには昭和三十年代まで、巨大な石臼があったということで、ぜひその行方を突き止めたいものである。 また、代々針浜の肝入きもいりであった阿部礼治氏の家に伝わる「風土記御用書かき出だし」(安永二年の書出を嘉永三年=一八五〇=に書写したもの)には「一、采女屋敷 采めと申金堀住居之所と申伝候所右年月相知不申候……」とあり、この采女屋敷と善五郎屋敷との関連にも興味がそそられる。 なお、金山を宰領した者が、財宝を隠した場所を示したのではないかと思わせる次の古謡が同地区に伝わっている。 朝日さす、夕日輝く、三葉みつばうつぎのその下に うるし万ばい、黄金おくおく271
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