女川町誌 続編
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ある。採石の一部は護岸用基礎、捨て石としてそのまま出荷され、他は砕石プラントで砕き、用途別にふるい分けて、生コン、アスファルト用骨材、道路用砕石等としての需要に供される。 本町を初めて訪れ、崎山公園に立った人々の目は、例外なく対岸のこの採石場の威容に引かれるし、スレート山が閉山した今、町民と石との縁をつなぎ止めるこの景観は本町の一つの顔となっている。石が採り尽くされるであろう二十一世紀のいつかの時期に、高崎山中腹を公園化し、この縦坑、横坑を目玉に、牡鹿半島の地質と自然の地下博物館といった構想が浮かび上がるかもしれない、そんな夢を誘う採石場拡張の計画である。 ☆本町の金山 本町に金山のあったことは『女川町誌』の第六節「地質・生物」の項に略述されているが、本書では地質調査所の地域地質研究報告「石巻地域の地質」(滝沢文教ほか)に基づいて、やや詳しく記載することにする。なお、本町内の金属鉱床は金鉱脈鉱床だけである。 1 女川金山 本町鷲神南方、三角点のある高郷山たかさとやま山頂周辺には石英閃せん緑岩りょくがんが稲井層群に貫入している。この東側(小乗側、コバルトライン上方)山腹に、石英閃緑岩の東縁部を貫く数条の含金石英脈があった。この石英脈は延長約一〇〇㍍、脈幅は一〇~二〇 センチメートルにすぎないが、昭和七年以来女川金山の名で磯村産業により経営され、現場でつき鉱精錬の際、しばしば直径一センチメートル以上の金片を産出した。特に昭和十一年七月には一片で二六六㌘、直径六センチメートルの大片を産出し、業界の注目を浴びたといわれている。その後次第に富鉱部は掘り尽くされたが、昭和十六年には非常に高い産金量の鉱石を産出したことが知られている。土地には、昔この辺は「千軒」の名で呼ばれ、鉱夫たちの飯場が軒を連ねていたという言い伝えがあり、あるいは江戸時代のある時期にも金鉱山として栄えたことがあ270
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