女川町誌 続編
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☆桃団地(農業構造改善事業としての果樹園団地) 町内の各所に果樹園の跡地が残されており、本町でも果樹栽培が広く行われた時期のあったことが知られる。これは昭和三十八年度、国及び県の農業構造改善事業の指定を受け、果樹生産組合が事業実施主体となって造成した桃を基本作物とする果樹園の跡である。 この事業は、本町農業経営の安定化に寄与するものと期待され、最終的には八〇㌶の団地造成により、収穫量二〇〇㌧を目標に、まず指ヶ浜、御前浜、尾浦、針浜、大沢の各地区に合計約四〇㌶の果樹団地が造成された。当初生産された桃は糖度も高く、県内の品評会で上位入賞を果たし、石巻市の青果市場の評価も良好で、将来は極めて明るいと思われていた。 昭和四十四年度には果樹園団地近代化のための施設整備事業も実施され、生産量は四十五年度の一〇〇㌧、四十六年度の一二五㌧と順調な伸びを示した。しかし、四十七年度以降、冬季の季節風、夏季のヤマセといった天候の影響で次第に収量の減少が目立つようになる。毎年一〇〇〇万円程度の町の補助を受けながらの当事者の懸命な努力にもかかわらず衰退の傾向はやまず、五十五年度の収量二八㌧を最後に組合は解散に追い込まれる。不振の主因である天候のほかに、そのころ好況だったワカメ、カキの養殖が、水産養殖を兼業とする組合員多数の果樹栽培に対する意欲を失わせたことも一因と考えられる。 本格的果樹栽培が本町に導入されたのは、日本水産(株)女川工場が石浜に缶詰用として桃園を造成した昭和三十六年ごろと推定されるが、日水の桃園経営はそう長い期間ではなく、正確には分からないが、昭和四十年にはすでに撤収されていたようである。 256
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