女川町誌 続編
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かつてはどの家庭の台所にも見られた削り器(カンナ)も都会では珍しいものになった。料理店や旅館からの需要、縁起物としての引き出物、贈答品として、あるいは高級志向の人々の間での人気は衰えてはいないが、庶民の日常的需要が激減した現在、需要の総量はもはや昔日の比ではない。加えて、薩摩節、土佐節優位の歴史的偏見もあって三陸節はいっそう不利な立場に立たされている。 本町におけるカツオ節製造の歴史は、『勇蔵日記』によって少なくとも二〇〇年前までさかのぼることができ、つい三〇年前の最盛時には、「加工屋」といえばカツオ節製造業者の代名詞の観さえあった。製法は長い歴史の間に種々の改良が行われてきたが、製造の需要段階である「節削り」は、修練を要する高度な技術家である専門の職人を必要とするに至った。これらの職人は、カツオの北上に従って、九州から三陸海岸までの各地の加工屋から高給で招かれ、半年の旅で一年の生計が十分たてられたものであった。本町はこれら節削り職人の供給地としても全国に知られていた。 本町で現在もカツオを取り扱う加工屋は一〇軒近くあるが、その多くはハナカツオ用として大手食品会社の下請けといった仕事をしているようである。家業の一部としてではあるが、本来的なカツオ節製法を守り伝えているのは、平塚定二郎(屋号¬ヨ印じるし」)、木村達夫(屋号¬丸元」)、内海忠紀の三氏である。 カツオ水揚げ量の変遷については遠洋漁業の項で述べたが、その総量に対する処理 237

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