女川町誌 続編
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好況期にあったカツオ漁に漁法の転換が進み始めるのは昭和三十年代後半であったと思われる。一本釣りという勇壮な伝統的漁法が、規模の大きい旋網まきあみ漁法に押され、次第に姿を消していく。 昭和四十年代後半からは、年ごとに強化される国際的な漁場制限、漁場の遠隔化、漁船の大型化と近代化に伴う新船建造費の巨額化、さらには二度にわたるオイルショックがもたらした燃料費の急騰と悪条件が重なり、遠洋漁業界を取り巻く環境は急速に厳しさを加えていった。 株式会社という近代的形態はとっても、実態は小企業である地方遠洋漁業の経営体にとっては、政府筋の指導もあって相あい保証(共とも保証ともいわれる)という危険な非常手段によって危機を乗り切るしか道はなかった。相保証は、保証し合う経営体に徹底した連帯の意識と責任感の存在を前提として初めて効果を発揮するものである。しかし、それぞれが独立した企業であるから、常に連鎖倒産の可能性をはらむことは関係者もはっきり認識していたことは間違いない。それでもなお、背水の陣としてこの手段によらなければならなかった業界の苦悩と悲壮な思いは部外者にもひしひしと感じられるほどであった。 はたして、昭和五十年代の後半に入ると業界の急迫は一挙に表面化し、相保証による生き残り策が裏目となり、長い歴史をもち堅実な経営で知られた名門の中からさえ、撤退あるいは倒産の憂き目を見る遠洋漁業家が出始めた。かつては十数体に上った本町の遠洋漁業経営体はすでに三分の一を割っている。昭和三十三年、宮城県東部鰹かつお鮪まぐろ漁業協同組合から独立し、以後も「東鰹とうかつ」の名で呼ばれ、町民に親しまれた宮城県女川遠洋漁業協同組合も、六十二年、ついに事実上の解散状態に追い込まれるに至った。 黒潮に乗って太平洋を回遊するカツオは、海のロマンをかきたて、春から夏への季節の移り変わりを告げる使者で 199
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