女川町誌
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七、江島は前に砲があつて足島沖に現われた米潜水艦を数回砲撃したこと、地方の防空壕工事がはかどらなかつたこと、駐屯兵が引揚後であるため、始め空襲を軽く見たこと等もあつて損害甚しかつた。 ㈠死者十九名、傷者十七名 ㈡家屋焼失三棟、大破三棟 ㈢機銃掃射は殆ど全部の家屋 八、軍部 ㈠沈没。海防艦大浜、掃海艇天草、掃海艇四二号及び三三号(女川湾内)監視艇金剛(竹浦湾にて) ㈡前記艦艇の戦死者約百八十名 ㈢防備隊員約二十名戦死(高射機銃座員共) ㈣野々浜飯子浜に駐屯して居た特殊潜航艇嵐部隊はこの空襲から全然除外されたことは珍らしいとされた。 三、空襲を語る(その一) 現女川町総務課長 木村公氏 木村氏は支那事変から帰つて空襲当時は女川町書記であつたが住居は小乗浜であつた。八月九日十日の空襲について次のように話した。小乗浜には目立つ建物としては水産実験所があり又金礦の土砂がうづ高く何か軍事施設でもあるかのように見えたらしく、部落の周辺は機銃掃射やら約二十個の爆弾に見舞われたのです。女川小学校の住宅が爆風で倒壊し民家のガラス戸がガラス五六十枚破損し、実験所から南方百米位の高崎山麓寄りに居た二百屯位の捕鯨船が五、六個の爆弾に見舞われて沈没しましたが、こんな猛烈な掃射と爆撃にあいながら区民は防空壕のおかげで一名も死傷者はなかつたのです。第一日目の午後三時頃空襲があまり猛烈なので家族の様子を見ようと、僅の空爆間隙を見計らい役場から小乗浜に早駈けできました。すると鳥居と油タンクの間頃に接岸碇泊して居た海防艦大浜は湾内唯一の高射砲を以て猛烈に敵機を砲撃して居たのであるが、敵グラマンの掃射と爆撃に耐えきれず艦の側方山麓に構築して置いた自分等の防空壕に退避せんとしたらしく、艦と防空壕の間の道路上に斃れて居た艦員約三十名位あつたが、午後四時頃には遂に転覆沈没してしまつたのです。日水に近く碇泊して居た掃海艇三十三号も見事な対空射撃振りで確に二機は防波堤外に落しました。防波堤にやゝ近く居た掃海艇天草も猛烈に対空射撃する様は役場の二階からよく見えたのですが、抵抗の強い所には敵機が群がり攻めるので艦の周辺に落下する爆弾約二十個、数十米の水煙を挙げて実に凄惨見て居られないような光景であつたが、最後の投弾が煙突に当つたと思う間もなく天草は艦首を先にして突立ち数分にして沈んでしまいました。所謂轟沈という所で悲壮胸に迫るものがありました。掃海艇四十二号も沈む、軍需品などを運搬して来た二三百屯級の計画造船や機帆船五、六隻港内に碇泊していたものは悉く沈められてしまつた時は、残念でもあり悲惨でもあり言い現わす言葉もありませんでした。 空襲を語る(その二) 造船所長 福田寿助氏 福田寿助氏は多年女川にあつて造船業を営んで来た人であるが、空襲当時の工場は今の新魚市場の所にあつて六米の県道をはさみ山寄りの方に住宅事務室があつた。氏曰く私の家でも後 948
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