女川町誌
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第十二編物語・伝説海陸交通の発達しなかつた古は、牡鹿半島一円の地は遠島と呼ばれた所で、住民の移動も少なく、且つ土地の開拓も遅々として進まなかつたので、自ら中央文化に著しく立ち後れ、遠隔僻陬の地方と見なされていたのである。従つて藩政時代の如きは、この地方を罪人島流し地とし、屢々流罪者を江島を始めその他の離島に抑留したのである。しかし一面に於ては、半島一帯は海岸線の屈曲出入が極めて多く、女川湾等の良湾に富み、また島嶼も多いので、自ら海洋文化の門戸をなしていたことも事実である。かの天竺千葉大王の皇子が尾浦に漂着したという伝説を始め、内外人にしてこの地に漂着、または来往したものも少くないと伝えられている。従つてこの地方には他の地方と異なる種々の物語や伝説を数多く残している。次にその主なるものの幾つかを掲げて見よう。一、尾浦御殿物語尾浦御殿の鐘つけば伊達の梁川思い出すという遠島甚句は宮城県内殆ど謡われない所がないまでに普及している。どうして左程に普及したのかというと㈠古い時代からの民謡である。㈡何んとなく雄大な感じがする㈢短い言葉のうちに遠く離れた恋人を思い出す切々たる情がこもつている㈣永遠変らない感じが淋しくも感得される㈤気品のあるそしていて親しみのある謡である㈥美しい物語も生きて居るばかりか、神社の古跡まで現存するという種々の素因があるためであろう。昭和十八年文部省図書監修官が青年師範学校地理教科書に女川漁港を挿入するため又社会教育官は社会教育調査のため相携えて来られた際、女川町から種々資料を提供した所893

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