女川町誌
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大東亜戦争に突入するや、燐礦石の輸入は絶無となつた。従つて米麦作に対する燐酸分を含んだ肥料は、堆肥と鶏糞位のものとなつたが、それだけではとても足りるものではない。而かも宮城県の農家で完全な堆肥舎を持つてる者は全農家の十%位のもので女川町には殆どない。主食のみならず、すべての食料に困つてる時であるから専門養鶏家はなく、農家が五羽三羽から生産する位の鶏糞では問題にならない。従つて大戦後も農家の困つたのは燐酸肥料である。 そこで宮城県増産課長佐々木技師は昭和二十年三月十二日女川町に来り、須田町長と足島の海鳥糞につき協議を重ね県及び県農業会は東北大学及び農事試験場に足島の糞土を送り、肥料成分を分析してもらつたら三・五%内外の燐酸と相当量の窒素を含み、且つ客土的価値もあるというので、是非採掘したいということになつた。しかし海猫と善知鳥は掬い網漁業に重大な役割をもつ益鳥であるから、之が住所即ち唯一の蕃殖地足島の土を取ることは漁業に影響することでもあり、殊に海猫は天然記念物の指定を受けて居ることであるから、須田町長は非常時の手段として県の了解を受けると共に江島・出島・五部浦・尾浦・竹浦・桐ケ崎・女川等の漁業組合の幹部を網羅して海鳥糞土採掘協力会を組織し、六月二十九日県より佐々木増産課長県農業会より斎藤・佐々木等の諸氏来町し、海鳥糞土採掘理事会を開き翌三十日須田町長・鈴木(喜)助役・木村(主)総務課長・相沢銃後奉公会主事等と共に江島に渡り木村(長)・漁業会長外幹部数氏同行して足島に行き、審査した結果、衆議一決採掘施行となつた。時しも六月であるから海猫は何万という程群棲し善知鳥の孔も無数にあり、蓬・いたどり等の草類が驚く程太つて島の土が如何に肥料分に富んでるかを思わせるものがある。さて愈々無人の離島に採掘に来るという段になつて見ると、この近海に米国潜水艦の出没が問題になつた。江島の砲台からも既に数回砲撃して居り金華山灯台などが砲撃されている。斯様な時に各町村より果して採掘隊を迎え得るや否やと言うことになつて、そのまま月日は過ぎたのである。 然るに一か月半して終戦となつたから俄に県の増産課と農業会は各郡農業会に檄を飛ばし、町村と交渉して順次交代に採掘開始となり、八月二十八日足島に渡つて鍬入式を挙行し、翌二十九日遠田郡農業会は四十数名を率いて江島の民家に分宿し、朝足島に渡り夕方江島に帰ることとなつた。事業主体は宮城県と県農で女川町長は事業協力会長、助役総務課長及び江島木村漁業会長外数氏は理事、相沢銃奉主事は事業運営主任となり、又足島に於ける集荷積込みには、江島の木村寿・木村栄・木村新一等の諸氏が当り、非常な希望と意気とを以て開始した。事業の進行に従つて江島からの通勤では朝夕の無駄時間が大きいと言うので、石巻山田組及び白手組を依賴して足島に二十四坪の住宅二棟、十二坪の共同炊事場一棟、五十坪の倉庫一棟、便所一棟を急造して採掘隊は直接足島に渡り自炊生活をすることになつた。これによつて早急困つた問題は二つ起つた。飲料水も顔を洗う水もなく江島から運搬せねばならぬこと。次の問題は便所が立ち所に一ぱいになることである。さて水については筆者が鶴嘴を持つて二日間水口を探して三か所発見したが宿舎に近く、且つ水量の多い波聴岩の下を選定して岩を掘り水口を拡張969 969

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